人権協とは?
結成のきっかけ
豊中市人権教育推進委員協議会は、昭和45年(1970年)に発足しました。結成のきっかけとなったのは、昭和44年(1969年)、豊中市内の一市民が、和歌山県田辺市役所に対して、娘の結婚相手に関する身元調査依頼の手紙を出したことにはじまります。これがいわゆる「田辺事件」と呼ばれるものです。
この手紙は言うまでもなく、露骨な部落差別の身元調査依頼であります。 手紙の文面でも明らかなように、依頼主の中に「人種、新平民、部落」という差別観念が固定していたのです。 この内容をみた田辺市役所から「信書の秘密は守らなければならないが、これを握りつぶすのは差別を温存する。」と豊中市に調査の申し入れがありました。 この申し入れを受けた豊中市は、事件の調査をすすめていくなかで、市民の間に、まだ根強い差別意識が残っていることが浮きぼりになりました。 この事実を眼のあたりにした豊中市中桜塚の故高畠光明氏は、「私たちの豊中市を、一日も早く差別のない明るい町にしなければならない。」との決意を固められ、そのためには、市民一人ひとりに人権教育を徹底させる必要があると考えられました。 故高畠光明氏の提唱は、豊中市や豊中市教育委員会の協賛を得ることとなり、各地域や団体への呼びかけが重ねられ、賛同者の輪は次第に広がっていきました。 昭和45年(1970年)4月14日、人権教育をすすめようとする目的に賛同する委員41人によって、豊中市人権教育推進委員協議会が結成されました。 結成宣言は下記のように述べています。
結成文 豊中では、今までに、いくつかの差別事象が発生し、差別観念がいまだに広く根強く残っていることを認めざるを得ない。 現実に残るこの差別観念を解消するためには、従来行われてきた学校・社会教育だけでなく、市民全体の運動として正しい考え方を培うようにしなければならない。 すべての地域、あらゆる団体の連携と協力によって、この運動は成果をあげることができる。 そうした運動を進める母体として、本協議会が発足した。 {昭和45年(1970年)4月14日結成会より}
こうした個人参加による市民ぐるみの自主組織は、おそらく全国でもまれなものであったでしょう。結成当時は41人であった委員数は、現在では約3900人の組織にまで発展し、今日に至っています。